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「淑子さん、今日はご機嫌がよろしいのですね」
「そうかしら、いつもと変わりないわ」
ここ１ヶ月ほど悩まされていた小さな事が動きを見せたのだ。確かに今日のワインはいつになく美味しい。
市内のホテルの一室。ここには、泊まりがけの会合と娘に偽ってやってきた。未亡人になって久しいとはいえ、彼は自分の相手としては若すぎる。多感な年頃の娘がいい顔をするはずがない。
水沢淑子は、自分がした小さな冒険を思い返し、胸をときめかせた。
「とっても恐かったけれど、あなたの言う通りにしたのよ」
「完璧だったよ」
恋人の進士はグラスを少し持ち上げていった。キザな仕草が様になる青年だ。
森本智紘の名を出して、やってきたのは想像していた通りの男だった。ああいう類をチンピラとかやくざとかと呼ぶのだろう。進士が言っていた通り、相手は財産のことにはいっさい触れず、智紘が祖母の佳乃に会いたがっているから会わせてやって欲しいと言ってきた。名物だと言って、不味そうなお菓子を手みやげにして。もちろんゴミ箱直行だ。
「おばあさん、お元気なんですか？」
「痴呆で、私のこともわからないのよ」
「孫に会わせたら、わかったりしませんか？思い出したりしませんか？旅行は出来ませんか？」
「ほとんど寝たきりなの」
「そうですか……」
淑子は進士に言われた通りのことをした。
「コーヒーをどうぞ」
「いただきます」
訪ねてきた男は、一口コーヒーを飲むと、不思議そうな顔をして淑子を見詰めた。
そんな目で見ないで。
耐えられなくなった淑子が目を逸らすと、男は微笑んで、
「すいません、俺、苦いの苦手なんです。砂糖もっと入れていいですか？」
と言った。
男は、何でそんなにゆっくりかき回すのか、というほど丁寧に砂糖を溶かしながら言った。
「伯母さんでもいいんです。あいつには遠出は無理なんです。会いに行ってやってくれませんか？妹さんの墓参りに行ってやってくれませんか？」
オバサン？会いに行け？墓参り？
妹の美弥子がどれだけこの水沢の家に迷惑をかけたのか、知りもしないくせに。母、佳乃宛の智紘からの手紙に、２人が死んだと書かれていても、彼の身体のことが書かれていても、少しも悲しくなかった。いい気味だとさえ思った。その私がどうしてわざわざ行かなければならない？
「いいご家族でした。穏やかなご夫婦で。俺、伯母さんの妹さんが初恋の人だったんです。智紘はあなたの妹さんに似ているんですよ」
「私、忙しいの」
「そうですか、残念です。また、お伺いしてもいいですか？」
男は混ぜていたコーヒーを飲まないで立ち上がりそうだった。
「お待ちになって。今、お母様のお加減をうかがってきますから。この部屋に来ることぐらいは出来るのよ。だから――」
「本当ですか？」
男は明るい顔をしてコーヒーを飲み干した。
「あいつがいなくなった時は、どうしようかと思ったわ」
男は部屋に掛けた鍵を壊して出て行ってしまったのだ。
「あなたの家から運び出すより、かえって好都合だった。どう処理したか教えてあげましょう。駅の近くの公園で座り込んでいるところを、親切そうに連れ出したのです」
「まあ、そんな所まで行ったの？なんてしぶとい」
「体が大きかったから、薬の量が足りなかったのかも知れません」
「今度は気を付けてね」
「また、あんなことをするつもり？」
「あなたのためよ。害虫の本体が、現れていないのですもの。まだ安心は出来ないわ」
淑子は、肩をすくめる進士にキスをした。
……そして、最後に薬を飲むのは、あなたよ、進士。財産は全て娘の妙のものなのだから。
「おじさん、リンゴください」
子供の頃からの馴染みの八百屋さん。
「ごめんよ、智紘君。また後で来てくんない」
おじさんは奥のおばさんを気にしながら小声で言った。２人の力関係がわかる。
「？」
おばさんはお客さんと噂話に夢中なのだ。話し相手はあの〔月の光〕に押してきた２人の主婦のうちの１人だった。何の話をしているかわかる。
「うちにはね、あんたに売る物なんかないよ！」
奥からおばさんの大声が聞こえる。
「すまないね、智紘君」
「いいえ」
「智紘さんの教え方分かり易いよ。学校でもこういう風に教えてくれればいいのに」
「ほんと？……太朗君、君の夢、とっても素敵な夢だね、きみなら絶対に叶うよ」
「そうかな？」
「そうだとも」
太朗の家に来ていた。両親は共稼ぎで何時も帰りが遅いらしい。ここに来た切っ掛けは、昨日〔月の光〕で、学校で教わった数式がどうしても解らないと言っていた太朗に教えてあげた事だった。どうやら太朗の耳にはあの噂は届いていないらしい。
問題は、勝手に上がり込んでよかったのかという事だ。彩花ちゃんが自殺した時の第一発見者である太朗の両親は、あの事件には誰よりも敏感なはずだ。
そのうえ噂は流れ、ぼくは少女暴行魔という怪物になっているらしいのだ。
「どうしたの？智紘さん」
「そろそろ帰るよ。もうお母さん帰ってくるでしょう？」
「僕は、あんな噂は気にしていないよ。智紘さんがそんなことするわけないじゃない」
「知っていたの？」
「僕はあの出来事の誰よりも近くにいたんだ。なのに、誰も僕の話を聞いてくれない。悔しいよ。僕は、みんなにきちんと意見を聞いてもらえる人になりたい。信用される人になりたい」
だから、弁護士か。
「ただいま」
「お帰りなさい」
太朗は母親を玄関まで出迎えて、何か話しながら一緒に部屋までやってきた。
「お邪魔しています。森本と申します」
知っている。母親は明らかに困った顔をした。
「森本君？夕飯一緒に食べていかない？旦那どうせ遅いし、すき焼きでもよければ、だけど」
太朗は、とっても嬉しそうな顔をした。
「今帰ろうとしていたところなので、失礼します」
「エー、いいじゃない智紘さん、すき焼き、人数が多い方がおいしいよ」
結局御馳走になっている。優柔不断だからだ。
「だって、お母さん、中学校の先生の癖に教え方下手なんだもん。わかんないよ」
「いくら体育の教員だって、中学の数学ぐらい教えられるよ。お前の飲み込みが悪いんだ」
どうもジャージ姿だと思った。二人の関係は良好のようだ。太朗はこの母に、将来の夢を隠している。お前には無理だ、と一笑に付されそうだもんな。
「森本君、時々こうして太朗に勉強教えてやってくれない？この子は本当にあなたの事好きみたい。息子の自慢をするようだけど、この子は人を見る目は確かなの」
それこそが、彼の夢にとって一番大事な事なのだ。
「いいんですか？」
「やったー！」
玄関のドアが開いた。
「お父さんだ、早かったね」
太朗の顔に怯えが走る。父親はかなり酔っていた。目が据わっている。酒乱気味なのか？
「何だ？お前は？」
「太朗、部屋に行っていなさい。君も――」
例によって鈍い智紘は腕を掴まれ、玄関から放り出された。
「うちの女房も襲う気か！！」
ドアの向こうでは激しく言い争う声がする。たぶん聞こえないだろうけれど、お礼を言って帰り掛けた時、二階の窓が開いた。太朗の部屋だ。
「太朗君、ごめんね。ちゃんとお礼言えなかったけれど、お母さんにおいしかったって伝えておいて。お父さんにも、謝っておいて。やっぱり、今度からは絹さんの所で勉強しようね。それじゃ、おやすみなさい」
太朗は、頷きながら手を振っている。泣いているみたいだった。太朗にもあんな事情があるのか。でもきっと大丈夫だ。彼にはあのお母さんが付いている。
帰り道、出入りを禁止されている公園のブランコに座った。夜だから大丈夫だろう。
靴もバッグも太朗の家に置いてきてしまった。靴を履かずにブランコを漕ぐって、何か変な感じ。
月を見上げた。こんなにじっくり見るのは何年ぶりだろう。
月よ、今迎えに来てくれないか。
今なら、少し幸せな気分で行けるのに。
合い鍵は、郵便受けの内側に貼ってあるから問題ない。玄関で鍵を探っていると声を掛けられた。
「お帰りなさい、随分と遅かったじゃないか」
「？」
廻りの気配には注意を払ったはずだった。が――。
「やっと会えたね、昨日も一昨日も居留守を使ってただろう？」
ここ数日、この家は投石を受けていた。夕べは、中学生か高校生がやってきて、長時間騒いでいた。ここは彼らのストレス解消スポットになっているらしい。幸い、家の中に乗り込んでくる事はないし、智紘自身に石は当たっていなかった。
数人の少年に取り囲まれた。
「ガラスだけじゃ、飽きてきた所なんだよねー」
数分間、袋叩きにされた。今だけは、死にたくない。この子達を人殺しにしたくない。
「お楽しみはこれからだよ。暴行魔には、暴行を。――服を脱がせろ！」
「嫌だ！やめて！！」
智紘は絶叫した。
月よ、あんまりだ。この子達が、あなたの使者だというのか。
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