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彩花ちゃんの声が聞こえてから一週間経つ。心の整理はまだつかないけれど、幾ら考えた所で、あれは二年も前に終わってしまった事なのだ。……あの子は、何もわからないぼくにだからこそ打ち明けたのだ。口に出せばあの子が傷つく。誰にも言えない真実。ぼくは薬に頼るのを止めていた。ぼくは、自分が怪物ではない事を思い出した。
「ほんとに独りで大丈夫なのか？」
「うん、独りが良いんだ」
あれからずっと〔月の光〕に泊めてもらっていたが、今日はどうしても自分の家に帰りたかった。
散乱したガラスは稲作が片づけてくれていた。智紘は、大掃除みたいに家の中を片づけた。
最後に残した仏壇の掃除をしながら話しかけた。
「ぼくは、薄情で情けない息子だったね。二人が残してくれた家を守ることも出来ずにこんな無惨な姿にしてしまった。あの時は泣くことも出来なかったのに今は涙が流れてしょうがないんだ。ぼくは自分勝手だね。あの時は覚悟をしたつもりだったのに、恐いよ。これからどんなことが起こるんだろう。たまらなく不安なんだ。……死にたくない」
「誰だ？」
稲作は声をひそめて問い質した。まだ灯りがついている智紘の家の前。
「広木くんね？」
「あんた誰？」
「太朗に聞いていた通りだわ」
「？」
太朗のお袋さんだった。
「もう生徒たちは来ないと思うんだけどね。ついここに足が向いてしまって。昨日まで彼、帰っていなかったでしょ？」
「毎日来てくれてたのか？」
「知っちゃったから。……辛いね」
暗くて顔が良く見えなかったが、彼女の声は憂えに満ちていた。
早朝、玄関のブザーが鳴った。
「どちら様ですか？」
「わしだよ」
「おじいさん！」
「朝早いけれど、起きてたな」
「はい。あまり片づいていませんが、上がりませんか？お茶でもいかがです？」
沼田のおじいさんが来た理由はわかっていた。噂が耳に届いたのだろう。だから隠す事もなかった。
「姫、酷くやられたな。今外回りを見てきたよ。こういう時は怒らんといかん。黙っていると逆効果だ」
「石を投げる人にですか？どういう風に？」
「明日の町内会で、弁明の場を設けようと思うのだ。物も売ってもらえないようじゃ、生活も大変だろう」
「そんなの恥ずかしいです。買い物は、隣町のスーパーで出来ますし、根も葉もない噂はそう長く続きませんよ。……引っ越すのも手かな、なんて考えています」
「逃げるのか？」
「はい。どうして、もう少しだけ静かにしていてくれないんでしょう。ぼくは思い出しました。ぼくは無実です。話すと傷つく人がいるんです。真実は、一緒に月に連れて行きます。……この事だけが、気がかりだったんです。思い出せて良かった。神様って本当にいるのかも知れませんね」
「そうなのか。……姫、わしはこれから〔月の光〕に行くのだが、一緒に行かんか？」
「はい」
おじいさんは、途中八百屋でリンゴを買ってくれた。彼が一緒だったから、八百屋のおばさんには何も言われなかった。
「おはようございます」
「いらっしゃいませ。珍しいツーショットだね」
〔月の光〕で沼田さんは何時もカウンター席に座る。今日は智紘も真似をして隣に座ったのだろう。
「いつものを頼むよ」
「ぼくも」
「智紘君、何か食べたら？」
沼田さんはいつものウインナコーヒーだ。食事は、家に帰ってしっかり摂る。ご飯にみそ汁という和食派だ。智紘はこの時間だとまだのはずだ。彼はあの騒動からの立ち直りが早かった。体に合う薬を決めるだけでも相当な日数が掛かるだろうと思っていたが、彼は薬に頼るのを止め、夕べから自宅に戻っていた。本当なら、独りにしておきたくはなかった。
「後で貰うね」
暫く談笑していると、モーニングサービス目当てのお客がやってきた。忙しい朝の始まりだ。
「絹さん、奥の部屋で休ませてもらってもいい？おじいさん、リンゴ、ありがとうございました」
智紘は客が来ると同時に奥に引っ込んでしまった。
トーストとハムエッグを焼きながら、沼田さんと話す。
「どうしたんだろう。あなたを一人残して行くなんて、彼らしくない」
「君に迷惑が掛からないように気を遣っているんだろう。たぶん寝てないしな」
「迷惑って？寝てないって？」
「聞いてないのか？……言わないか」
「何です？」
沼田さんから家への投石の話を聞いた。何故黙っているんだ。
「あんまりです。あの子が何をしたっていうんです？今日からまた、ここか稲さんの所に泊めます。僕は彩花ちゃんのお母さんに真実を話してもらいます。止めないでください」
「止めないよ」
モーニングサービス目当ての客が途切れたところで準備中の札を掛けた。
「絹さん」
「ごめん、起こしちゃった？」
智紘の毛布を掛け直してやっていた。可哀想に。何故この子にばかり厄災が降りかかる。
「お客さん、減ってない？」
「減ってないよ。どうしてそんな事きくの？」
「だったらいいんだ。絹さんには何時も迷惑ばかり掛けているから。また迷惑を掛けたらどうしようと思ったの」
「迷惑掛けられてるなんて思った事ないよ。僕はこの通りの独身でしょう、君は僕の子供みたいなものだから、君の成長が楽しみなんだよ。思いっきりおじさん臭いね。僕はもう、四十だからね。君が子供を連れてきたら、虫歯になるからチョコレート禁止、何て言うのの目を盗んで食べさせて、パパより絹さんの方が好き、何て言われてみたいんだよ」
想像の付かない未来予想図だ。
「おかしな夢だね」
「そうだね」
「絹さん、稲作はとっても頼りになるよ。沼田のおじいさんは何でもお見通しだし」
「そうだね」
「絹さん、ありがとう。もう少し眠るね」
「そうだね」
でも、お礼を言うのは僕の方だよ。ありがとう、智紘君。
別れの時が近い。
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