みちくさ 夢の中 前ページへ ８ 次ページへ
８
「明日、陽二が帰ってくるのよ」
「陽二？」
「あの子の名前。弟の名前を借りたわ」
「それはいい」
佐伯未来の部屋のベッドの中。
隣には心の支え、氷上慶彦がいる。未来よりも８歳も年下だ。
本社に勤務していた時、誰よりも有名な彼の存在を知らなかった。
社員食堂で後輩相手に課長のセクハラまがいの行為にもっと毅然とした態度を取るべきだと説教していた。彼女たちにお局様と言われていることも知っている。
「先輩」
後輩は隣を見るようにと目配せしている。
「何よ」
未来は、説教中の険しい表情で傍らに立つ相手を睨み付けた。課長本人であっても怯みはしないのだ。今まで何度も言ってきたことだし、望む所だ。
昼休み中の食堂でこの程度のことを話していても文句はないだろう。だが、周りの空気が自分たちのテーブルを中心にみょうに退いている。
「うちの会社にこんなに元気ないい人がいるとは思わなかった」
ハンサムな青年が立っていた。でも、自分が憧れるには若すぎる。対象外というやつだ。後輩は、瞳きらきらのハートマーク。今日の説教はこれまでか。
「何か用ですか、席ならすぐ空きますよ」
未来は、まだグズグズ立っている青年につっけんどんに言った。誰もが知っている顔を未来だけが知らない。いや、覚える気がなかったのだ。
後輩が言った。
「先輩、社内報見てないんですか？」
社内報には、人事のことや、季節の便りなどありきたりのことが書かれている。巻末には必ず何枚かの写真と供に社長一家の記事が出ている。彼はその記事に頻繁に登場する人物。社長令息、氷上慶彦だった。後輩たちは記事を見るたびに夢を見ていたようだが、未来は入社して一冊目に目を通しただけで、後は一切見ることはなかった。あの頃の慶彦は、まだ子供だったのだ。社員を洗脳する意図が見えるからだ。たいした能力もないだろうに、会社を腐らす元凶が立っていた。
慶彦は、自分に興味を示さない未来に興味を持ったようだ。何度か食事の誘いを断ったが、ある時折れてみた。
「マックならいいよ。あなたまだ学生でしょ。支払いは割り勘よ」
父はここの社員だ。母も結婚退職するまでここに勤めていた。祖父は１０年前にここを定年退職した。未来は何のためらいもなくこの会社に就職した。両親も祖父も大喜びし、適齢期になった未来の見合い相手を捜している。もちろんこの会社のどこかにいる、自分たちよりもちょっと出世出来そうな相手を、世話好きの上司にいって捜してもらっているのだ。彼らにとって自分たちと同じ道を子供が歩くということはこの上なく安全で当然のことなのだ。未来もそれが当たり前のことだと思っていた。すぐ下の弟、陽一も来春この会社に来る。
家族の中で一番下の弟、陽二だけが違っていた。陽二は来春中学を卒業するが、進学する気がない。悪い仲間と遊び歩いていて家には滅多に寄りつかないのだ。
「てめえら、気持ちが悪いんだよ」
これが陽二の口癖だった。
人事課に異動になった時、陽二の言葉の意味がわかった気がした。社長は代々世襲制。自分も含めてほとんどの社員がコネクションで入社している。採用された時、薄々は感じていた。でも、ここは東京本社だ。関連会社を含めて全国で何人の社員が働いているのだろう。そして、あの課長のような男達。大好きだったはずのＨ商事。大きすぎる体に古すぎる体質。腐臭がしていた。
約束の時間に慶彦は来ていた。
逢うたびに未来は会社の実情を語った。誰もがわかっていることなのに誰も見ようとしない事実。未来は退職を決意していた。親たちの愛した、自分も愛そうとしていたＨ商事ではあったが、もう我慢の限界だ。この不況の中、次が見つかるとは思えないが仕方ない。だから慶彦にはただの学生と話をするように、未来が知っている限りの話をした。どうすればいいかは後で彼が考えればいい。彼の周りには保身のために事実を曲げて伝える輩が大勢いるはずだ。
「わかっているよ、未来さん。それでもみんな動けないんだ。でもね、僕には会社を変える資格がある、と思う」
「どういうこと？」
「……お願い。辞めないで、僕を待っていて下さい」
あれから何回か逢っているうちに慶彦とこんな関係になった。結婚は考えられない。彼には子供の頃からのフィアンセがいる。きっと家柄の良い娘なんだろう。何から何まで旧態依然だ。
未来がこの土地に飛ばされたのは人事課長の思惑だけではない。お姫様の悋気に触れる前の安全策だと慶彦は言った。そんなに恐いものなのか。
社内では、あの社員食堂の一件が慶彦の怒りを買ったんだと噂されている。Ｈ商事という会社は、まだ入社もしていない将来の社長の一言で、社員の人生を変えてしまうという、とんでもない所なのだ。
そのおかげで今がある。
「あの子、また死のうとするかも知れない――」
陽二は３階の病室の窓から飛び降りた。幸い命は取り留めた。怪我は大したことはなかったのだ。しかし彼は発作を起こし、未来は彼の身体のことを知った。
彼は精神科に移されて鉄格子のある窓の部屋で手足の自由を奪われて天井だけ見て生きていた。時々涙を浮かべている。その目は、「お願い、ぼくを死なせて」と訴えていた。
彼はずっと正気なのだ。
一月ほど前、病院に呼ばれて訪ねると、起き上がっている陽二がいた。医師と看護師が嬉しそうにしている。
「よかったね、佐伯さん。陽二君、さっき言った言葉をもう一度お姉さんに、自分の口から伝えなさい」
「お姉さん、心配かけてすみませんでした。ぼくはどうかしていたんです。受験なんて、来年も、再来年も出来るって、どうしてあの時思えなかったんだろう。一年や二年のことをそんなに気にすることはなかったのに。また頑張るから許してください」
ロボットだ。未来が、彼や看護師に言っていたことをそのまま再生している。未来は彼が死に急ぐ理由を知らない。ただ、初めて聞く声は思っていたより大人びていたし、初めて見る笑顔は可愛らしかった。
「ハハハ、あいつらしい。真面目に勉強してるのか？」
慶彦の笑い方は残酷だった。陽二は、医師や看護師の差し入れの参考書で勉強し、必要最低限の会話もしていた。退院が今頃になったのは、寝たきりで動かせなくなった手足を元に戻すためのリハビリのためだ。
「何でそんな笑い方をするの」
「あいつは僕と同じ歳だ。受験をするなら大学受験だ。未来、安心していいよ。あいつは君の前では死なない。死ぬのは君と離れてからだ」
「あの子、あなたの知り合いなんでしょう？名前も住んでいたところも知っているんでしょう？家に帰してあげて。生きているうちに」
「？」
「あの子、病気よ。あなたは知っているの？」
「そうか。……帰しても、あの町にはあいつの面倒を見てやるやつはいない。あいつが命がけで守った男は行方不明だからな」
「そんな――」
「そんなことはどうでもいい。これを君に。同志の印だ」
慶彦は未来の指に金色の指輪をはめた。特注なのだろう、見たことがない美しい彫刻が施してあった。
「綺麗」
「僕がデザインしたんだよ。ネリネ、南アの彼岸花だ」
尻を撫でられた。あの社長にだ。
「主任、今日でコンビは解消です。俺、明日異動願いを出します。だめだったら会社を辞める！」
異動出来ないんだったら辞めるしかない。こんなばかばかしいことのために警察沙汰はごめんだからだ。
あの社長が変態趣味なのは今日の所は我慢出来た。我慢出来ないのは彼を取り巻いている稲作と同年輩の男どもだ。
なぜ体を張って男一匹で生きていけないんだ。
体を張っているのか？
いいや、絶対にゆるせねえ。こんど顔を合わせたら１００パーセント殴る。
今日我慢したのは、これまで親切にしてくれた先輩社員の今井のためだ。
「よく我慢してくれたよ。俺からも人事に言っておいてやるから」
「出張は今日で最後だから終電まであいつを捜します。主任、今日までありがとうございました」
生きているのか、死んでしまったのか。智紘の消息はつかめない。
俺を愛していただなんて悪い冗談に決まっているのだ。でも、この街を捜すしか、捜して気を紛らすしか術が無かった。だがそれも今後は難しくなる。現業になれば東京出張はない。職を無くせばなお来られなくなるだろう。
その時は、いっそのことここに住んでみるか。
「無駄なことは止めろ」
「！」
忘れられない声。あの空手野郎だ。
たまたま見かけたのか？
いつも監視されていたのか？
敵は戦闘態勢に入っている。
やる気か。
さっき我慢したぶんストレスが溜まっている。
一暴れするか。
稲作は彼と出会うまで喧嘩で負けたことがなかった。
殺すつもりはなかったようだと、沼田のじいさんは言った。あの時、格の違いを思い知らされたのだ。これでもこの半年間自分でも不思議なくらい沼田道場で修行に励んだ。こんな日が来るかも知れないと思ったからだ。
しかし……。
殴りかかっても蹴りかかっても全てかわされる。
あいつが俺を殺すつもりだったら、どうにでも出来るのだ。こんなところで大立ち回りを演じなくても、稲作のアパートで、どこかの路地裏で……。
敵は手加減しながら確実に当ててくる。
まるでネコにもてあそばれるネズミだった。
「実践不足だな」
「あんた、誰なんだ！」
稲作は人通りの多い夜の街を逃げ回った。都会の人たちは、ちょっと避けて迷惑そうに眉をひそめるだけで気にもとめない。
「何人か殺れば、度胸がつくぜ」
気が付くと、Yシャツもズボンもボロボロになっている。もちろん中身もだ。
痛みなんか感じなかった。
体力だけが奪われていく。
恐い。
なんで、ここまで歯が立たねぇんだ。
汗に混じって悔し涙が流れた。
手に持っていた背広と取引先の資料を何処かに落としてきてしまった。資料は謝ってまたもらいに行けばいい。背広のポケットには財布が入っていたのに。Yシャツの胸ポケットに入れていた携帯電話は粉々になっている。……このままなぶり殺ろされるなら、そんなものは必要ないか。
稲作は袋小路の路地に追いつめられた。
「森本は死んだ。あきらめろ」
「なんだと！あんたが殺したのか！？」
「さあね」
「なぜだ！殺さなくったって――」
「あきらめると言え」
「嫌だ！」
稲作は抵抗を止めた。
敵は、稲作のような子供を殺すのをためらっているようだ。このためらいにチャンスはある。
「俺はあきらめねえ、好きにしろ」
一瞬の隙に袋小路一番奥の店に転がり込む。こんな所にあるのはいかがわしい店に決まっている。
何だ！？殴られ過ぎて頭がおかしくなったのか？
外観とは別世界。中世ヨーロッパのパーティー会場みたいだ。きらびやかな家具調度、ふかふかの絨毯、シャンデリア、部屋中に飾られた薔薇の花。
「まだ開店前よ」
豪華なドレスを着飾ったフランス人形がしゃべった。
「客じゃねえ、裏口はどこだ」
「なんて下品な」
「迷惑掛けたくねぇんだ。裏口はどこだって言ってんだんべぇ！」
「迷惑掛けられてるわ」
高そうな絨毯をしたたる血と汗が汚している。
「すまねえ。後で、弁償するから、頼むよ」
「高いのよ、あなたには無理ね。あなたが後で戻ってくる保証もないわ。ここを出れば、きっと殺されるんでしょう？」
この状況で、顔色一つ変えずにおっとりとしゃべっている。顔色もわかんないほど塗りたくっているんだ。声が低い……のど仏が……ある……男だ……。
稲作は、この異空間と強烈な薔薇の香りに当てられて気絶した。
「麗華さん、こいつ、外に捨てますか？」
「そうねえ――」
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