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４
今日は主のいないこの席で智紘と同じように川面を眺めている。
『夜になるとね、あの辺りは一面の黄色い花畑になるんだ』
「月に見てもらうためだけに咲く花……か」
絹さんと、稲作と、智紘……歳の離れた優しい長兄と、弟思いの行動派の兄、夢見がちでひ弱な弟。一人っ子の春菜は末の妹に加えてもらうことと引き替えに、智紘への思いを心の奥にしまった。それでも、例えお芝居でも他の人とデートするなんて嫌だ。彼女は智紘にキスまでしたのだ。
悔し涙なのか、春菜は暖かいものが頬を伝うのを感じて慌てて指でぬぐい取った。
顔を上げると、絹さんがこちらを見ている。智紘もこんな風に見守られているのだろう。
「稲さん、遅いね」
稲作と出かけるつもりはなかった。
聞いてみたかったのだ。智紘に対する異常な執着と、なんで春菜には関係ないのかを。
「私、帰るね」
稲作に腹を立てたら、なんだか元気が出てきた。今まで恋愛はタブーという雰囲気だったけれど、もう違うんだ。
春菜は胸を張って〔月の光〕を後にした。
「絹さん俺だ、春菜を出してくれ」
稲作は、携帯に向かって大声を出した。
「いないよ、もうとっくの昔に帰ったよ」
約束の時間を３０分過ぎている。
「君も仕方ない男だね、何でもっと早く連絡出来ないんだ？」
「後で埋め合わせする」
埋め合わせなんて出来るはずがない。あれは春菜の気紛れな発言だったのだ。一度きりのチャンスと承知ですっぽかした。
稲作は自嘲した。
あれじゃ、俺自身が春菜の恋敵だ。
「――ごめん絹さん、後でそっちに行く」
稲作は慌てて携帯を切ると、民家の塀の陰に身を隠した。
真夏の日中は暑い。いくらボート池や松林があっても、公園ではデートの場にふさわしくなかったようだ。
「ごめんなさい。どういう所に誘えばいいかわからなくて」
「……」
沙也香はじっと智紘の顔色を窺っている。左腕に巻かれた包帯が気になっているようだ。
「これ？……まいったな」
智紘は説明に困って頭を掻いた。
「まさか、死のうとなんてしてないよね」
思いも寄らない質問に、智紘は益々困ってしまった。沙也香の口からそんな言葉が出るなんて。
「そうだとしたら、いくらお芝居でもデートなんか出来ないよ。それに、ぼくは左利きだから、左手は切れない」
とんちんかんな返答だ。
「なんか、元気ないみたいだから」
「冗談みたいな話なんだけどね――」
智紘は３日前のラジコンヘリコプターの出来事を話した。
「――それにしても、あのおもちゃは高いと思うんだけど、弁償してって言われたらどうしようかなぁ」
またとんちんかんなことを言ってしまった。先方が出てきたら、慰謝料がもらえるのは、たぶんこっちだ。
「質問ついでに、もう一つ聞いていい？智紘君、結婚してるの？」
「してないよ。これは大切な預かりものなんだ」
「見せて。私、そっくりな指輪を見たことがあるの」
「珍しいデザインでしょ、これ。彼岸花だと思うんだ。ぼくにぴったり」
智紘は指輪を抜き取って見せた。
沙也香は指輪の内側を見た。HISASIと刻印してある。
がっかりしているように見えた。
「どうしたの？」
「私がそれとそっくりな指輪を見たのは、彼の部屋の机の上なの。……私、待っていたのに」
「きっとどっかに置き忘れているんだよ。じゃなければ、ぼくみたいに誰かから預かっていたとか」
「ありがとう。優しいのね」
ここには３人でよく来たな。
「ここって、ぼくたちの子供の頃からの遊び場だったんだ」
「ぼくたち？」
「うん、稲作と、きみは知らないけれど、久っていうやつと３人で悪いことばかりしていたんだ。小学生の頃の話だけどね」
「どんな悪いこと？」
「入っちゃいけない所に入り込んだり、ザリガニ取って釣り人のじゃまして怒られたり、木の実なんかも取って食べたな」
今思うと大して悪い事じゃない。それでも、家の中でしか過ごしてこなかった智紘にとっては全てが新鮮だった。してはいけない事をするという行為も初めての体験だった。首謀者は大体稲作だった。
沙也香は楽しそうに話を聞いている。田舎の少年の話は面白いのか。
「あの池の中に大きな赤い岩があるでしょう？あの岩には悲しい恋の伝説があるんだ――」
――昔、まだここが利根川の川原だった頃、一人の美しい娘が、対岸に住む青年に恋をしました。娘は毎日この赤い岩の上に立ち、対岸の彼に逢うのを楽しみにしていました。
でもある時、青年の気持ちが冷めてしまったのです。
それでも娘は毎日あの岩の上に立って青年を待ち続けました。
彼は姿を見せなくなってしまいました。
娘は悲しみのあまり、あの岩から激流に身を投げてしまいました――
「――娘の名前は、お艶（れん）。だから、あの岩はお艶が岩って言うんだ。……この悲恋は現代のぼく達には考えられないね。今は橋もあるし携帯もある。出身の村の違いなんて関係ない」
「今でも、どうすることも出来ない恋ってあると思う。お艶さんみたいに相手に何も求めない一途な恋って素敵。それと比べると私は何をしているんだろう。汚れているよね」
確かに、どうすることも出来ない恋はある。智紘は、おねえの顔を思い浮かべた。遠い昔の出来事だったような気がする。
「おっと、変な方向に話が進んだ。違うんだよ、ぼくが話したかった話はね。ぼくらが子供の頃、夕暮れになると、あの岩からブォーンブォーンってとても恐い音がしたんだ。ある日稲作が言った。あれはお艶さんが悲しくて泣いているんだって。……久だけが本気にして怖がった。いつも冷静なかれがそんなことで怖がるなんて、ぼくと稲作は顔を見合わせて笑った。あの岩の縁には、ウシガエルが棲んでいたんだよ」
「ウシガエル？」
「食用蛙。高級食材だ。きみなら食べたことあるでしょう？」
「あるわ。鶏肉より繊細で美味しいわよ」
「ぼくは食べたこと無い」
姿を知っているから。
「こういう所を歩くのって久しぶり。気持ちいいわ」
「ほんと？なんか嬉しいな」
二人は池の岸に立っているお艶観音に手を合わせた。
お艶さん、現代と比べてごめんなさい。沙也香さん、少しはデータを受け取ってくれましたか。
「あっ、カワセミだ！」
青く輝く小鳥が、二人の前を横切った。
「綺麗、幸せの青い鳥ね」
「そうだね。ねえ、近くに美味しいソフトクリーム屋さんがあるんだ、行こう」
車通りはほとんど無い。アスファルトは素手では触れないだろう。
陽炎が揺れている。
智紘と沙也香はのんびりと道路を横断している。
「ったく、幼稚園児かよ」
浮世離れした二人を物陰から見ていた稲作はため息をついた。春菜を怒らせてまでやっていることが、親友のデートを盗み見ることだなんて。
俺はいったい何をやっているんだろう。情けねぇ。
さっきから後ろで自動車のエンジン音がしている。
「うるせぇな」
振り返ると、白い国産車の運転手は、まるでスローモーションのように稲作を一瞥して通り過ぎ、アクセルを踏み込んだ。
「！」
忘れることが出来ない顔。空手野郎だ。智紘が殺される！？
「あっ、可愛い」
沙也香は、向こう側に繋がれた大きな犬を見つけると走っていった。
「智紘！避けろ！」
「え？稲作？」
すごい勢いで稲作が飛び掛かってきた。アクション映画のヒロインみたいに抱きかかえられたまま一回転した智紘は、何が起こったのか解らない。
「お前、馬鹿か。怪我はないか？少しは周りに注意を払はなきゃ、だめだんべぇ」
我に返ると、立たされて埃を払われている。のではなく、稲作は片膝を付いて、智紘に怪我がないか調べているのだ。
「きみは大丈夫なの？」
「そんなにやわじゃねぇよ。――車は行っちまったようだな。わナンバーだった」
「ラブちゃん、こっちにいらっしゃい」
沙也香は今の出来事に気付かなかったのだ。暢気そうな声がする。
突然立ち上がった稲作は辺りをきょろきょろ見回している。
「誰か俺を呼んだ」
「呼んでないよ、沙也香さんの声だよ」
「ラブちゃん！」
呼ばれると、直ぐに行かないと怒られるのだ。稲作は沙也香の傍に駆け寄った。
って、ここは〔Madam☆Rose〕じゃねぇ。
沙也香は、大きな黒い犬に話しかけている。
「この犬の名前、ラブちゃんっていうのか？」
「知らないわ」
「稲作、この子はラブラドールレトリバーっていう種類の犬だよ。元々は猟犬だけど、頭が良くて大人しいから、ほとんどの盲導犬がこの種類なんだ」
「黒ラブ？」
「なんだ、知っているんじゃないか」
黒ラブはきちんとお座りをして、遊んで欲しそうに、代わる代わるに３人の顔を見ている。
稲作は一歩前に出ると、しゃがんで、まじまじと犬を見た。
「お前が、ラブちゃんか」
もっとよく見ようと首を傾げると、黒ラブも同じく首を傾げた。
「プッ」
智紘が吹き出して笑っている。
「きみたち、そっくりだね」
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