みちくさ―interval― 前へ ３ 次へ
５
午前１０時。
病室を訪れると、珍しく稲作は眠っていた。今の彼には眠る事が一番の仕事であり薬だ。
稲作は、見た目野性的で動物的だ。体も丈夫で病気で寝込んだ事などなかった。それに反して心はとても繊細なのだ。深く付き合わないとこのギャップに気付かないだろう。彼自身も気付かれないように努力している。その努力が限界を超えてしまったのだ。
この程度の怪我なんて、今まで何回負ったかわからない。弱った心が体の傷を支えきれなくなってしまったのだ。免疫機能の低下が、屈強だった若者をこうも簡単に死地に追い込むなんて……。
本人に自覚がないようだが彼は本当に死にかけたのだ。ここに連れてきた時、彼は既に意識がなく血圧が異常に下がっていた。呼吸不全と腎不全を起こし、集中治療を受けなければならなかった。
機械に繋がれた稲作の姿は、あまりに非現実的だった。
「こんな冗談は止めて欲しい。あたしは、どうしたらいいんだ？……あれから、一言も喋ってないんだ。このままじゃ――」
昌子は、僕の胸で泣いた。
幸いしたのは、ここの病院設備が整っていた事と院長が症例慣れしていた事だ。院長は的確な診断をし、使用された抗生物質は驚く程良く効いた。普段薬など飲んだ事がない事も幸いしたのだろう。死亡率４０％とも言われる状態から稲作は生還したのだ。
横向きで眠っている稲作は、傷つけられた野生動物のように悲しげだ。
涙？
彼は涙を流して眠っている。
「――絹さん、来てたのか」
気配で目を覚ました稲作は言った。
「どうしたの？どこか具合が悪いんじゃ――」
「いや、何で？」
「だって……」
絹さんは、涙を拭くようにとティッシュを渡す。
「え？わっ、ごめん、見なかった事にしてくれ。寝しょんべん見られたみてぇに恥ずかしい」
「あのう、お見舞いをさせてもらってもいいですか？」
特別室。
個室の何倍もある、高そうな家具調度が置かれた部屋で、裕介は見舞いの花に囲まれて眠っていた。手に持った売店で買った花束は随分見窄らしい。
「！！」
稲作を見た母親は飛び掛かってきた。
「――この子を殺しに来たのね！」
床に落ちた花束が飛び散った。
「ちょっと待ってくれ、いったい何なんだよ！」
「逆恨みして、この子を殺しに来たのね！！あなたなんか死ねばよかったのに！」
「！？」
「返してよ！！戻してよ！！」
ほんとに殺しに来たのなら、逆恨みではなく正当な恨みだ。逆恨みしているのはどっちだ！言いたい所だが、言えなかった。母親は鬼の形相で、突き飛ばした稲作の腹の上に馬乗りになって胸を叩き続けている。女の力、少しも痛くはない。いや、一カ所だけ痛い、心が。
こんな顔、この人は誰にも見せた事がないだろう。
「先生、奥さん、大丈夫か？」
稲作は、自分の病室に戻っていた。
「薬で寝かせている。……君には重ね重ね申し訳ない事をしてしまった」
あの後、騒ぎを聞きつけた看護師たちがやってきて大騒ぎになってしまった。
「俺が、警察に行ってりゃ、こんな事にはならなかったのに。いつまでも寝かせておかないで叩き起こしてくれれば良かった。……裕介、袋にされたっていうのに綺麗な顔をして寝ていたな」
「誰がそんなことを言った？突き飛ばされて頭を打っただけだ」
「打っただけって、中身がやられたんだろう？だから起きねえんだろう？」
「脳に異常はない」
「じゃ、なんで起きねぇんだ？」
「わからない」
「……俺のせいだ」
「君とは関係ない」
「俺のせいなんだ。俺が裕介に会ったからなんだ」
「何を言っている？」
「どうやら俺はおかしいらしい。自分ではそうは思わないんだが、周りはそう思っているみたいだ。さっきだって、奥さんが言うように、裕介を殺そうとしたのかも知れない」
「君は正常だ。事情をマスターから聞いて、私たちも気を付けて君を見ていたんだ。誰もが経験する範囲の軽い鬱状態だ。治療の必要もない」
「鬱？そうとは思えない。……死にかけた男から妙なもらい物をしたんだ。勾玉みたいな形をした石のペンダントだ。俺が受け取って、首から提げた途端に石は消えてなくなった。今の俺には見えないし触れない。だが、時々見えるやつに会うんだ。石が青く見えるヤツに。そいつ等には先がないんだ。やっぱり変だろう？おかしいだろう？治療してくれ」
「裕介には、見えたんだね」
「？」
なぜ驚かない？疑わない？
「君に初めてあった時、そうじゃないかと思った。慎吾に聞いていた通りだったから。慎吾の言っていたことは本当だったのか」
「慎吾？」
「私の一番下の弟だ。猪熊慎吾（Indian summerに登場）」
「総合病院の？猪熊先生？名字が違う」
「私は婿養子だ」
「あの人は？」
「亡くなった」
じわじわと涙が溢れてきた。スポーツマンタイプで白い歯が印象的な好青年。慎吾のそういう姿しか思い浮かばない。稲作は言葉が出なかった。初めて院長にあった時、懐かしい感じがしたのは、二人がどことなく似ていたからなのだ。
「――」
「彼はいつも君に感謝していた。君のおかげで最愛の人に出会えたって。最後に君に会いに来てもらおうかと提案したが、泣かれるのは嫌だって。君は大きいくせに泣き虫だから、連絡しないで欲しいと言われた」
バレているなら隠すことはない。稲作はこぼれた涙をトレーナーの袖で拭った。
「信じるのか？」
「弟が言ったことだ。……裕介にも、見えたのか」
「この話、裕介は知っているのか？」
「聞いていないだろう。あの子はあの通りだ、慎吾の見舞いに一人で行ったとは思えない」
「すまない。俺にはどうすることも出来ねぇんだ。俺は死に神なのか？人に死の宣告をするなんて。……奥さんが言ったように、死んだ方がよかった」
「その気持ちが、みんなに心配をかけているんだよ。慎吾は君に感謝をしていた。活かせる方法はあるはずだ」
６
裕介にもしものことがあったら自殺するかも知れない。稲作の身辺に注意を払って欲しい。
思っていたことを医師に忠告されて絹さんは動揺した。
智紘が亡くなってからここに来るまでの間、稲作は不自然なほどそれまでと変わらない生活を送っていた。旅に誘っても首を横に振ったし、しばらく実家に戻っては？という提案も受け入れなかった。
ここに来て、たがが外れてしまったのだ。稲作は抜け殻のようにぼんやりして、裕介の身に起こる事を待っている。彼は裕介が死んでしまうと思い込んでいるのだ。
こんな時に、春菜はもう稲作の彼女ではなく、昌子は智紘の死に責任を感じていて合わせる顔がないという。逢えば嫌でも思い出す、そんな思いをさせたくないのだろう。
昌子からは、稲作の様子を聞く電話が毎日のようにある。
「絹さん、何を心配してるんだか知らねぇが、俺はそんな馬鹿なことは考えてねぇぜ。俺が一番考えちゃいけねえ事なんだから。智紘のためにも俺は長生きする。……自殺するぐらいなら、この身体、必要としてくれる人に預けるさ」
「どうしたのかな？そんなにしょんぼりしちゃって。また誰か夜中に訪ねてくるの？」
「姉ちゃん」
総合病院の看護師だった浅見恵美、今は、猪熊恵美だった。彼女は、慎吾の余命を全て承知で彼と結婚した。慎吾は、彼女のおかげで幸せな最期を迎えることが出来たようだ。
「君がここにいるって、お義兄さんに聞いたのよ。きっと何かの縁だと感じて、私も仕事に復帰することにしたの。いつまでも悲しまれることを、慎吾さんは望まないから」
「判るのか？」
「自分の信じる道を行くの」
「偉いな。……俺はまだ道が見つからない」
「ふーん、慌てなくたっていいんじゃない？君は私よりずっと若いんだし、ゆっくり考えてみれば？」
「そうだな」
裕介の病室に日参するうちに入院患者の子供達の間に広まった、俺が死に神だという噂。俺が裕介の生気を吸い取っているらしい。子供は正直なのかも知れない。
恐い物見たさに日に何回か子供達が顔をのぞかせる。
見た目よりまともな死に神は彼らの人気者になった。
もう一つの噂と供に。
ある日、６歳ぐらいの男の子がやってきた。
「なんだ？」
俺を見て目を輝かせている。
「おじちゃん、死に神じゃなくて、ほんとはウルトラマンだよね。青のカラータイマーがついてるもの」
「ばれたか。これが見えた事は誰にも内緒だぞ」
その日から俺は、厚地のハイネックを着るようになった。シャツの時は一番上までボタンをはめた。らしくない着こなしだが仕方ない。
そして、ふとんから出られなくなった。
早くここを出たい。
夜。
夜勤の恵美が見回りに来た。
「広木君、病院の中なら散歩ぐらいしてもいいのよ。足腰が弱っちゃうよ」
「いいんだよ、放っておいてくれ」
「そんなんだから子供達に死に神だっていわれるのよ。この髪も何とかしなくちゃ、私がジョキジョキ切ってあげようか？」
「さわるな！」
「相変わらず、ガラスの心ね」
「うるせえよ」
「私は、とても幸せだった。彼も、私と暮らした間が一番幸せだったと、言ってくれたわ。……あなたは、幸せだった？彼はどう言っていた？」
最後の夜。
『稲作、ありがとう。きみに会えてよかった』
『十歳の夏休み、ぼくが庭に出ていなければ、きみが庭に迷い込んで来なければ、ぼく達はこうしている事はなかっただろう。縁ていうのは不思議だね』
『楽しかったな』
『今まで』
『そうだね。ぼくはとても幸せだった』
『こだわるね？今も幸せだよ。みんなに愛してもらえたもの』
「……俺は、幸せだった。あいつに会っていなければ、この、見た目通りの人間になっていたかも知れない」
この町でも東京でもその筋の人間に誘惑された。智紘がいなければ、意志の弱い俺は誘惑に負けていただろう。
「見た目通りって？保育士？あなたの周りには子供達が集まってくるものね。子供って正直よ。ちゃんとあなたの心が見えているのよ。心は顔に表れる。……あなたは、優しい顔をしているわ」
廊下がやけに騒がしい。
様子を聞きに行った恵美は戻ってこなかった。
廊下に出てみると、野次馬のじいさんが言った。
「屋上で飛び降りると騒いでいる娘がいるらしい」
「なぜ来たの？」
屋上で少女を説得している恵美の問いに答えた。
「死に神だから」
娘は柵の向こうで身を乗り出している。
近付こうとした稲作に叫んだ。
「来ないで！！」
「姉ちゃん、これ、どういう事なんだ？」
稲作は小声で恵美に訊ねた。
「納得してくれてたはずなのに。明日手術なの」
「恐くなったのか？」
恵美は肯いた。
あんなところにたっている方がずっと恐いと思うが。稲作は高所恐怖症だ。
「難しい手術なのか？」
恵美は首を横に振る。
「麻酔をかけたりするから１００％とは言えないけれど」
「止めに来たんじゃねえ！！見物に来たんだ。なぜ、死にたい？」
「手術するぐらいなら死んだ方がマシなの」
「恐いのか？」
「別れたくない。彼は、私の白い肌が好きなんだって」
「？」
ゴクリ。稲作は思わずツバを飲み込んだ。
この娘、子供のように見えるけど？
「傷ついた身体を見せたくないの」
「ばかな事言ってんじゃねぇ。生きていたくたって生きられねぇやつが大勢いる事、ここにいるんならわかってるはずだ。命を粗末にするような事、言うな」
「私の気持ちは、あなたに何か解らない！」
彼の事だけではない、様々な不安が彼女を襲っている事は俺にも推測出来る。
「こっちを見ろ！」
「何よ！」
「資格があるか確かめてやる！！」
俺の声はでかい。じりじりと間を詰めていた俺は、娘の手を掴んだ。
「放してよ！！」
俺は空いている手で胸のボタンを外した。片手で外すのは何とももどかしい。
そして、胸を広げて耳元で囁いた。
「噂は聞いているだろう？見ろ、何が見える？」
「見えないわよ！何も！」
「よし！」
娘を引っ張り上げて抱きかかえた。
「この手術でお前は絶対に死なない。死に神の俺が保証する。彼だって、多少の傷が出来たって丈夫なお前がいいに決まっているんだ。そんなことで退くような男だったらお前には相応しくないゲス野郎だ。――腕は大丈夫か？」
「痛いわよ！」
彼女は駆け寄った職員に連れて行かれた。
「無茶をするのね」
「絶対的な自信があった。あの娘は死なないという」
「あの子の事じゃないわ。あなたの事よ」
「俺にも、この柵の向こう側は、かなり魅力的だ」
稲作は、柵を撫でながら言った。
俺にもペンダントは見えていないのだ。
「止めてよ！」
「広木君、さっき裕介の意識が戻ったよ」
成り行きを見守っていた深町院長が、傍に来て静に言った。
稲作はその場にへたり込んだ。
「しっかりしなさい、無茶するからだわ」
「違う。腰が抜けた」
さっきの自信の根拠が崩れ去ったからだ。
「あなたがずっと見守っていてくれたことは判っていた」
病室に駆けつけると、智紘に似た顔が、俺を見て微笑んで言った。
「良かった。これが見えたのに死なずにいてくれて」
稲作は見えないペンダントを撫でた。
「綺麗なルビーですね」
裕介は親父の薦めで海外留学するという。
俺に見えないペンダントは、祐介に渡すことが出来なかった。彼は、俺が死ぬ時に再び現れるやつだったのだ。
今度会う時は、サイボーグぐらいに昇格しているだろうか。
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