みちくさ―interval― 前へ ２ 次へ
４
働きたい。ここはもう嫌だ。働いている方が何も考えなくてすむのに、治療だ検査だと、なかなか退院許可が下りなかった。怪我はすっかり治っているが、１カ所、元に戻らないところがあった。水分と塩分をを制限され、週に３回５時間ずつの治療を受けている。おとなしく治療を受けていれば、一生涯という事にはならないらしい。もし戻らなかったら、職種を考えなければならないだろう。
俺の前世はサメかマグロだったに違いない。動きを止めていると窒息しそうだ。足を折った時はリハビリで汗を流す事が出来たのに、ここは動いちゃダメだというのだ。
マジで参る。考えたくない事を、考える時間が嫌というほどある。
あの日。
駆けつけてきた警察に、智紘を取り上げられた稲作は、和哉と共に任意同行を求められた。和哉の父親の事件から日が経っていない事から、石坂組がらみの事件、智紘はそのとばっちりを食ったのだろうと考えられたからだ。
事情聴取と昌子の証言で、組がらみではなく、昌子のストーカーの異常行動だとわかった。
聴取を終えた稲作は、和哉と廊下ですれ違い、初めて言葉を交わした。
「傍にいたんだろう？どうして止めてくれなかった」
「立派な最期だったぜ。――すまない。間に合わなかった」
「悪かった、あんたのせいにする気はない。傍を離れた俺のせいだ」
「あいつにとっちゃ、お前なんかに看取られるより、ずっとよかったはずだ」
それは、智紘の最期の表情が物語っていた。
わかってはいるが、智紘の父との約束を守れなかった。
穏やかに死なせるどころか、非業の最期遂げさせる事になってしまった。
稲作は待っていた。
昌子がまだ聴取を受けている事を知ったからだ。
聴取を終えて出てきた彼女に、ビンタを食らった。
昌子は、警察から智紘の身体の事を聞かされたのかも知れない。
二人の間に言葉は、一言もなかった。
あの日。
沼田のじいさんは町内会の会合に出ていた。
そこには彩香ちゃんの母親も出席していた。彼女は智紘のために、話したくない真実を話そうとしていたのだ。絹さんの説得によるものだ。
会合終了間近、絹さんから電話が入ったのだという。
「絹さん、どうした？もう町内会終わってしまうぞ」
『智紘君の件は？』
「これからだよ」
『……間に合った。議題から、外してください。……さっき、彼は亡くなりました――』
電話を終えた沼田老人は、広間に戻ると話し始めた。
「今日は非公式で皆さんにお願いしようと思っていた事があったのだが、必要なくなってしまった。皆さんもご存じと思うが、いつも川原に座っていた森本君への皆さんの態度についてだ――」
「何か起こってからでは遅いんですよ」
「うちの孫は怖がって公園に行かなくなってしまった」
「この町から出ていってくれるように、言ってもらえませんか？」
「黙って聞いてくれんか？お願いは必要なくなったと言っただろう。……あの子は死んでしまった。みんな、ホッとしたか？……あの子が私たちに何かしたか？」
「すみません――」
一番後ろから消え入るような声がした。
「彩花の母です。皆さんの誤解を解いてやって欲しいと、〔月の光〕のマスターに言われてきました。さっき彼の家も見てきました。あの人は皆さんの思っているような事はしていません。彩花を自殺に追いやったのは――」
「待ちなさい、彩花ちゃんのお母さん。彼が生きていれば、あなたに話してもらうが、もういいよ。……真実は自分が連れて行くと彼は言っていた。彼の気持ちを無にしないでやってくれ。ありがとう、あなたが来てくれた事であの子の潔白は証明されたと考えていいね？……皆さん、供養と思って、あの子の顔を思い浮かべてやってくれんか。わしには、あの子が笑って挨拶する顔しか思い浮かばない」
司法解剖を終えて警察から帰された智紘は棺に入れられていた。
傍にいてやれば、解剖される様な事にはならなかったのだ。
俺が傍にいてやれば……。
「どうした？起きろ？顔色悪いのはいつもの事じゃないか、起きろよ。なぜだ、何でなんだ？どうして起きない？」
智紘は、あの、穏やかで満足そうな顔で目を閉じている。
「起きろよ。なぜだ、何でなんだよ。いつもいつも勝手な事ばかりしやがって……」
頬に触れると、冷たく堅かった。
いやでも受け入れなければならない。
死。
「……俺、これからどうしたらいいんだ、智紘」
「僕を第一発見者にしないでくれたのかい？僕は、病床の君を看取る覚悟は出来ていたんだ。なのに君は、いつも僕を驚かせてばかりだ。立派だったよ、愛する人を守るなんて。君はいつも悲しそうに笑っていた。きっと楽になったんだよね」
絹さんは両手で顔を覆うと静かに泣いていた。
その夜、絹さんと二人で智紘を送った。
森本家３度目の葬儀は、稲作にとって慣れたものになるはずだった。が、彼の意に反して大がかりなものになった。身寄りがなく、一人娘を救ってくれた智紘のために、赤木建設が仕切ったからだ。その間、昌子と目を合わせる事はなかった。
葬儀を終えた稲作は、〔月の光〕のカウンター席にぼんやりと座った。
智紘の遺品の財布の中には、黄色いカード、臓器提供意思表示カードと弁護士事務所の電話番号のメモが入っていたのだ。
「こんなカードを持っていたなんて、医者に聞けずに灰にしちまったな」
「聞くだけでも、聞いてあげられればよかった。彼は何時も誰かの役に立ちたいと思っていたからね」
薬漬けの身体では使える臓器はないかも知れないけれど。
自分に何かあったら連絡するように。――遺言状があったのだ。智紘の両親が万が一先に自分たちがいなくなった時の事を心配して、貯金や保険に気を遣っていただろう事は想像していた。だから俺たちは、あいつに無理をして働くなといっていたのだ。
「親が残した金なんて無くたって、あいつ一人ぐらい俺がどうにでもした」
「彼は、君みたいに自分の働きで生きてみたかったんだよ」
「わかっているさ。……これだけあれば大学行ったって一生遊んで暮らせたぜ」
「――」
人生八十年なら、一生遊んで暮らすにはほど遠い金額だ。智紘の父親の人生これからの人間の退職金は少なかった事だろう。生命保険料は少し森本家の家計を圧迫していたかも知れない。それでもサラリーマンが出来る範囲の事なのだ。莫大な遺産というわけではなかった。
「俺も、知ってた」
「――」
「あいつの病気の事。独りで抱え込まなくったっていいんだぜ」
「君が言い出すまで言うつもりはなかった。僕が知ったのは彼が亡くなった夜だ。下手な芝居を見せることも出来なかった」
「……聞かされたのは、高三の時。覚えているだろう、あいつが焼却炉に閉じこめられて入院した時のこと。あの時、おかしいと思ったんだよ、子供の時はわからなかったが、みんながやけに大げさで深刻だったんだ。たかが、喧嘩の怪我の対応には思えなかった」
「そうだったのか」
「ああ、俺は、あいつの親父さんに聞き質した。親父さんは素直に教えてくれたよ。あのひとが交通事故で死んだのは、それから一週間後だった。あの時のあの人の対応こそが、予感というものなのさ。自分が死ぬ事を予感して、俺に託したのだと思う。親父さんとあいつの考えを、俺が納得するまで三日間話し合ったぜ。……金がなかったんだ。手術代。日本でダメならアメリカ行ってドナー探して、半端な金額じゃなかった。俺は募金活動でも、銀行強盗でもして金を作ると言った。あのひとに、智紘が望むならそれは自分の仕事だと言われたよ。でも望んでないんだって、これまで通りの穏やかな日々を送る事があいつの望みだと言われたんだ。最後まで知らないふりをしてくれと言われたよ。……残酷な話だろう」
「それを通したのか？」
「ああ、だが、さすがに連れ戻ったばかりの３ヶ月間だけは神経を使ったがね。元に戻らなくてもいいとも思った。あのまま最後を迎えた方が悩まずにすむんじゃないかとも思ったよ。かなえられる望みならどんな事でもかなえさせたかった。本当に俺を愛していたのなら受け入れてやろうと思った。……だから捜したんだぜ。自殺したと聞かされた時は仕方ない事だと思った。後で俺を守ってくれるためだったと知った時の俺の気持ちがわかるか？あの時、あいつは死ななかったけれど、今回は違う。……絹さん、おねえには黙っててくれないか？」
余命が短かったからといって、死なせた心の痛みが減るものじゃない。かえってあいつが望んでいた特別扱いされない態度を取っていたことが、昌子を苦しめるかも知れないからだ。警察から聞かされていたにしても、こちらから彼女に言うつもりはなかった。
「君にも言わないつもりだった」
「……結局俺は、あの人達との約束をまともに果たせなかった」
残りは１つ。智紘に言われたあんたの支えになる事だけだぜ、絹さん。
「これからどんどん具合が悪くなるはずだった。それでもいいから、受け入れて看取りたかった」
「俺もだよ。……覚えているか？あいつ、親父が死んだ時もお袋が死んだ時も泣かなかった。親不孝をしないですんだと思ったのかも知れねえな。あのお袋さんにはあいつを看取るなんて無理だ。……俺の役目はこれからだった。いつまでお互い黙っていられたのか。……結局あいつも俺も病気のことに付いちゃ一言も話さなかった。あいつは俺が知っていた事を、わかっていたかも知れないけど」
とんでもない遺言状の内容は、俺と絹さんに財産を半分ずつよこすという物だった。不承知の場合はいくつかの慈善団体だか自然保護団体だかに寄付するという内容になっていた。俺たちはもちろん不承知だ。
「２２歳で遺言書かなきゃならないなんて……」
「それを僕達は読んでいる。悲しい。僕は、ただ、彼のことが好きだった」
初七日が済んだ頃、北海道から水沢淑子がやってきた。さすがの稲作も彼女に顔を合わせる事が出来ず、絹さんに助けを求めた。彼女の目的は、智紘の遺産。一家全員が亡くなったのだから遺産は血縁者が相続する権利があると主張した。そんな事はどうでもよかった。立ち合いだか手続きだか知らないが、一切を絹さんに頼んでしまった。
稲作は、拳を震わせながら言った。
「何で１時間でも３０分でも、生きている時に来てやってくれなかったんだ。ウソでも良いから、笑顔で会ってやって欲しかった。……俺はどうしても、あの人を受け入れられねぇ。せっかく来てくれた妙ちゃんのためにも、トラブルは起こしたくねぇんだ」
更に稲作を傷つけたのは、マスコミが智紘をストーカーから彼女を守ったヒーローとして報道した事だ。事件の事だけなら心を痛めたりしない。彼らは、そっとしまっておいた智紘の過去までほじくり返して、おもしろおかしく報道したのだ。
稲作は、思い出したくもない事を思い出し、疲れて眠りに落ちた。
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