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リエは、一度ウエディングドレスを着てみたかったのだと言った。
智紘は彼女と約束をした。あの、紫苑にもらったお金でドレスを買ってあげる約束を。良い物は買えないだろう。でも、あんな働き方でも自分で稼いだお金なのだ。
「お千代ちゃん、心配掛けて悪かったな」
「こっちこそ、酷い目に遭わせて悪かったね」
「俺の不注意だったんだ、気にすんな」
「これをお食べ」
お千代ちゃんは籠に山盛りの干し柿を持ってきた。
きっちり２ヶ月で仕事復帰だ。まだかなり足を引きずるが、あんな恥ずかしい思いをしたところは１日も早く出たかったのだ。
「作ったのか？」
「智紘が手伝ってくれたんだ。あの子は器用だ。あの子、よくこの前を通るんだよ。いつも楽しそうにして。あんたがここで怪我したの知って、あたしの様子を見に来てくれたんだ」
よくここの前を通るって？彼の行動範囲にこの辺りが含まれていたとは知らなかった。
「ほらごらん、通るよ」
確かに、嬉しそうな顔をしている。大きな箱を抱えていた。
「お千代ちゃん、時間まけてくれるか？」
「あんた、悪趣味だねえ」
お千代ちゃんの家の前を通った智紘は、人気のない道をどんどん歩いていった。
荒れ果てた竹林と雑木林に囲まれて、その建物はあった。
朽ち果てた小さな洋館――通称幽霊屋敷。稲作が子供の頃からこうだった。当時は肝試しスポットだったが、今では立ち入り禁止になっている。老朽化が激しくて、今にも潰れそうだからだ。
智紘は、慣れた様子で中に入って行った。
よくぞここまで朽ち果てたというくらい、中の様子も酷い。床は抜け落ち、長年の間に入り込んだ蔦が壁中に絡み付いて枯れている。階段を見上げると、上には登っていけそうもない。かろうじて屋根が乗っている。多少の雨なら凌げるかも知れない。
だが、雨など凌げなくてもいいモノが潜んでいることはわかっていた。
ここを見た瞬間からだ。
野生の勘が叫んでいる。
この建物に近付くな！
中に入るな！
奥の方から智紘の喋る声が聞こえてくる。
見たくない。
「――シンプルなデザインだからきみに似合うと思うよ。……きみの好きな曲を弾こう」
朽ち果てたピアノの前に座る智紘が見える。ピアノを弾いているつもりらしいが、音は全くしなかった。
「だれ？」
立ち上がった智紘はこちらを見た。
冬だというのになま暖かい風が吹き付けてくる。
「稲作？きみに紹介しようと思っていたんだ。ちょうどいい、発表もしちゃおう」
智紘はポケットから大切そうに薄っぺらな紙を取り出した。婚姻届。……紹介しなくてもいい、発表しなくてもいい、そこにあるモノがなんなのか、恐いぐらいわかる。
顔に敵意の風が吹き付ける。
『悪霊が取り憑いている』
見たくねえ！！
「ぼく達、結婚するんだ。だから、名字を教えておくれ、リエさん。……うふふ、ジュリアン、あんまりはしゃいじゃダメだよ」
元はベッドだったかも知れない台の上に、純白のウエディングドレスが掛けられていた。
よく見ると、ドレスの首の部分から茶褐色をした乾涸らびた顔が覗いていた。薄い髪は白髪だ。
足下には銀色のネコのミイラが丸くなっている。
うえっ、死後１，２ヶ月なんてもんじゃねえ。
智紘が出会うずっと前からこの死体はここにあったはずだ。……ここにあるんだ。幽霊より恐くない。
恐いのは、智紘の言動だ。
「お前、ほんとにわかんねぇのか！？それは死体だ。結婚なんて出来ねぇんだよ！」
「出来るよ。ねえ、リエさん、教えてよ、あなたの名前と住所を」
稲作は、震える手で携帯をかけた。
――ただいま、電話に出ることが出来ません――
「何で出ねぇんだ！俺だ、広木だ！死体を見つけた。たぶん自然死だ――」
留守電の相手は山田という刑事だ。高校時代、何回か起こした揉め事で、捕まりかけては釈放されるという、稲作にとっては助かったが、山田がどう感じていたかはわからない、おかしな知り合いなのだ。
「もう少しなんだ。……自分が誰だかわからないなんて、可哀想じゃないか」
智紘は自分がしていることがわかっているようだ。涙を流して訴えている。
「後は警察に任せよう。きっと調べてくれるから」
「いやだ！信用出来ない！……リエさん、教えて？一緒に行ってあげるから」
智紘はミイラの手を握った。
やっぱりイカれている！
「てめえ！」
稲作は敵意の風を全身に受けながら、ベッドにもたれ掛かる智紘の腕をねじり上げた。
なんで、お前はまともなことが出来ねぇんだ。
バトンを渡すどころじゃない。
稲作は、腕をねじられて立ち上がった智紘に当て身を食らわせた。
なま暖かい風は益々強くなり、天井が崩落し始めた。
智紘を担いで、ベッドの上を見た稲作は言った。
「リエさん、ちょっと待ってろ。こいつを置いてきたら、迎えに来るから」
智紘がここまで入れ込んだ相手を、このまま瓦礫に埋もれさせるのは忍びないと思ったのだ。稲作は、建物の外に智紘を寝かせ、上着を掛けると、洋館の中に戻った。
ウエディングドレスより、ずっと小さな身体。ドレスを隣に広げると、死体を抱き上げてドレスの上に乗せた。手足が取れたらどうしようと思ったが、乾ききった彼女の身体は、悲しいほど軽く、そのままの形でドレスの上に乗せられた。ネコのミイラも一緒に乗せて、ドレスでくるんだ。風呂敷代わりだ。
純白の包みを抱き上げた稲作は出口に向かった。
「約束する。あんたの家族を必ず見つけて、家で正月を迎えさせてやる」
世間は師走に入っているのだ。
バラバラと天井が崩れてくる。
あと少し、あと数歩で館から出られる。
稲作は、床を踏み抜き、身動きが取れなくなった。
建物は限界を迎えた。
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