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９
――お遊びはここまでだよ、智紘――
頭の中で声がした。
「誰？――ううっ！来ないで！」
智紘は、籐椅子から転がり落ちた。身体が拒否してのたうち回る。
京介が、真由子を連れて開かずの間に入ってきた。
やはり、真由子は部屋に入っても表情一つ変えない。
「どうした！」
「さっき、あんたが下に降りてから、様子がおかしいんだ。智紘、おい、しっかりしろ！――じいさん、何とかしろ！」
「発作じゃない。脈は安定しているのに。下手な薬は使えないが――」
老医師が慌ててカバンを探っていると、智紘はそれを振り払った。医療用具は床に散らばった。
――眠らされてはかなわない。いう事を聞いてもらおうか――
頭の中の声は高圧的になっている。
光くん、どうしろっていうの？
「うっ！――」
「おい、じいさん、何とかしろよ！智紘、智紘！」
智紘は目を見開いたまま動かなくなった。胸は、規則正しく上下している。
「何よ、どういう事よ？死んでいたんじゃないの？……その子が死ぬ所を見せて、私にどうしろって言うのよ」
「嘘だろ、冗談だよな、智紘」
稲作は、智紘の身体を揺さぶりながら呼びかける。
「気持ち悪いわね、帰るわ！」
「真由子ちゃん、何て言うことをいうんだ！」
「貴様！」
稲作は、智紘を医師に託すと、真由子に詰め寄った。
「なによ、――い、生きてるじゃない、その子！」
真由子は、立ち上がった智紘を見て叫んだ。
「智紘、無理するな、横になっていろ」
振り返った稲作は、智紘を見た。赤い口紅を塗った口の片方を吊り上げて嗤っている。
「ひっ！――違う」膝が、ガクガク震えだした。
「稲作、何言っている」
「智紘じゃない」
「真由子ちゃん――」
憑かれたように歩み寄る智紘。
「来ないでよ、近寄らないで！」
「なんで？真由子ちゃん。真由子ちゃん、まだわかってくれないんだね。君には本当の僕を見てもらいたかっただけなのに、どうして？」
「何で何回もそんな姿で私の前に現れるの？！早く飛び降りてよ！早く消えうせてよ！」
「なんで、こんなに長い間引きずってるの？僕が自殺したのは、君のせいじゃない。君に、世の中全体の目を見たからだよ。耐えられなかった」
「言葉の暴力で、私はあなたを追いつめた。十五歳だったのよ！好きな人のあんな姿は許せなかった」
「あの日、あの窓から飛び降りた僕は死にきれなかった。僕は這って涸れ井戸に飛び込んだ。あの井戸は深いんだ。致命傷は負ったけど、しばらくは生きていた。駆けつけてきた執事とメイドに頼んだんだ。僕が死んだらこのまま埋めてって。開かずの間は絶対見ないでって。こんな姿を見られたくなかったの。……彼らはずっとここにいて良いという条件で、約束を守ってくれた――」
悲しく、孤独な死に方だ。家人達は自分の都合だけでこの館を守った。心から光の供養をした者がいるだろうか。
掘り出したら、俺たちが供養してやる。
「――真由子ちゃんが、ここの鍵を掛けてくれたんだよね。ありがとう。真由子ちゃん、僕、君の事本当に好きだったんだよ。でも、愛していたのは……お兄ちゃん」
方向転換した光は、京介の方に歩み寄った。
「ほんとに光なのか？」
「お兄ちゃん、今度こそ、僕を一緒に連れて行って」
「てめえ、何言ってんだ！」
掴みかかろうとした稲作は、光に指差されただけで、触れる前に壁まではじき飛ばされた。こんな時に日頃の鍛錬が役に立つ。稲作は、身を縮めて受け身をとった。光の”圧力”は、腕と脛で受け止められ、壁に頭を打ち付けずにすんだ。
稲作の身体は大の字になって壁に貼り付けられた。猛風に吹きつけられたように、壁に押しつけられて身動きが取れない。小人たちに地面に括り付けられたガリバーみたいだ。垂直だけど。
老医師は、稲作の身にだけ起きている現象を呆然と見ている。
「じいさん、見るんじゃねえ！」
血管でも切れたら、どうするんだ。
光は怒りに燃えた青い目で稲作を睨んでいる。足下の人形達も一斉にこちらを見た。
恐い……。
身に降りかかっている異常な現象よりも、この無数の視線の方が耐えられない。
笑い出したくなってくる。
「気のせいだ！こんな事は認めねえ！！」
弾かれた勢いで輪ゴムは切れて、髪が放射状に壁に張り付いている。首を前に出すと、髪の毛だけが壁に吸い付く。まるで強力磁石に細い鉄鎖で出来た髪の毛や鉄製の身体が吸い付けられているようだ。
畜生！親父の言う事聞いて丸坊主にしておけばよかったぜ。
満身の力を込めて、身を丸めると床に落下する事が出来た。
イリエワニみたいに、匍匐前進で光に向かう。
後１０センチ。手を伸ばせば足首が掴める。
またも指差され、壁に叩き付けられた。
「こんな事は、信じねえんだよ！！ぬおぉぉーっ！！」
さっきのように身体を丸めて落下すると、今度は素早くコモドドラゴンのように近付いた。
「ははは、おもしろいなぁ」
三度目もまた、壁に叩き付けられた。
光はダンスのステップを踏みながら、稲作を指差している。楽しんでいるのだ。
「智紘の身体を乱暴に扱うな！」
「どうして？」
「胸が苦しくならないか？」
「……そんな風に？」
身体を丸める力が出ない。
ミシッ、ミシッ。
壁がきしむ音がする。
！
力が出ないんじゃない。さっきより押しつけられる力が強いのだ。全身の骨もきしみだした。
うわっ、痛え！！
智紘の顔を借りた残忍な嗤い顔。……潰す気か。
智紘に殺されるなら、仕方ないけれど……。
お前は智紘じゃねえ！！
「止めなさい！！光！」
目の前で起こっている信じられないような出来事に、我を失っていた京介は、やっと言葉を口にした。
「ガオーッ！！光！もうそれ以上、その人を苦しめるな」
稲作は、磔にされたまま、青く輝く光の目を見て言った。
「なに？」
「甘ったれてんじゃねえ！お前はその人の１０年間を知っているのか」
一瞬、光の指が下がる。
今だ！
「お説教は嫌い。目障りだ」
飛び掛かった稲作は、方向を変えてはじき飛ばされ、扉と供に螺旋階段を転がり落ちていった。
「広木！」
「お兄ちゃん、行かないで」
京介が着せた青いドレスを着た、身体は智紘で心は光の”何か”が立っている。
光とは思えない。
花を手折ることさえ、可哀想だと言っていた、心優しい子だった。
知っていたはずなのに、勉強という大義名分でこの子を独り残して、僕は逃げたのだ。
僕が光をこんな風に変えたのか。怨霊にしてしまったのか。
その上、稲作の大切な智紘を利用してしまった。
初めて智紘を見た時、一瞬息が止まった。心を病んでいた智紘が、別れた時の光と重なって見えた。初めて〔月の光〕に足を踏み入れた時だ。稲作が捜していた少年は、自分の弟とそっくりだったのだ。あれから何度も隠れて見に行った。稲作の大切な人に手を出すつもりはなかったのに、智紘のほうから声を掛けてきた。何も言わずに去ればよかったのに……。
「光、君は自殺したんだ。他人に迷惑をかけるような事をしてはいけない」
「ずっとひとりぼっちで、寂しかった」
「悪かった、君の体を掘り出してあげるから、帰りなさい」
「嫌だよ、お兄ちゃん！」
稲作が、髪を振り乱して階段を這い上がってきた。階段から転げ落ちた彼は満身創痍だ。
「貞子みたいだ……。稲作、大丈夫か！？」と、老医師。
「――」
稲作の減らず口が返ってこない。
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