みちくさ―月に還る― １ 次ページへ
みちくさ――月に還る――
プロローグ
大きな川の畔に建つログハウス風の喫茶店〔月の光〕のドアが開いた。
「いらしゃいませ」
笑顔で迎えたマスターの絹さんは銀髪。それ以外はあの頃のままだ。
「絹さん、お久しぶり〜」
春菜は、少女のように両手のひらを振りながら入って来た。
「春菜ちゃん大丈夫？いつ生まれるの？」
あの頃と比べると、横幅が倍くらいになったかも知れない。春菜は重そうな身体を揺らしてやってきた。三人目。出産のたびに体重が増えてしまうと嘆く彼女は幸せそうだ。
「まだ７ヶ月なのよ。みんなに大丈夫かって言われて困っちゃう」
「千尋ちゃんは？」
「学校よ」
「お前、何で自分の娘に早死にしたやつと同じ名前を付けた？そろそろ気にする年頃じゃねぇんきゃ？」
稲作は、相変わらず早口の上州弁だ。
「智紘のような優しい子になって欲しいから。ピアノも習わせているの。いつか、あれを弾かせるからね」
春菜は、店の中央のピアノを懐かしそうに見た。
「前に連れてきた時、あの絵のモデルにお前の名前をもらったんだって言ったら、満更でもなかったんだ。母さんの初恋の人だって教えたの」
また、ドアが開く。
「すみません、遅くなりました」
「吉野先生は、相変わらず忙しいか？」
「先生はやめてくれませんか、稲作さん。貧乏暇無しなんです」
太朗は、胸にひまわりと天秤のバッジを付けている。彼は、人権擁護派であまり収入にならない依頼も平気で受けてくれると評判の小さな弁護士事務所で働いている。
「稲さん、太朗君の厄介になるようなことはするなよ」
「その時は格安で頼む」
「まったく。……あれ？どうしたの、入っておいでよ」
太朗の後ろから、恥ずかしそうに女の子が入ってきた。一同に向かって、ぺこりと頭を下げる。
様子から、彼女が太朗の大切な人であることがわかる。
「今日は、智紘さんに報告に来たんです。……智紘さん、僕たち、結婚します」
今も同じ場所に掛けられている智紘の肖像画に、太朗は語りかけた。
長めの巻き毛に繊細な横顔、色も褪せずに歳もとらずに年月を重ねている。
智紘の絵を見る事が目的で、〔月の光〕に訪れる客もいる。この絵は、作者にとって唯一の人物画だからだ。フランス在住の画家、浅倉耀一郎は、慶彦の予想に反して有名になった。県内の美術館にも彼のいくつかの作品が収蔵されている。
氷上慶彦は、氷上商事の改革に成功し、この不況を乗り切って学生に人気の優良企業に立て直した。
沼田老人は、去年、人生の最後を迎えるならああ在りたいと、誰もが思うような大往生を遂げた。
「清水、和田！？」
「１２年かかったよ、和田君をここに連れてくるまで」
今度は清水がやってきた。清水は何年か前、社長の娘と結婚し、代を継いで若社長になっている。和田は清水の印刷工場で働いている。
「あいつの自己犠牲が許せなかった」
「そうか、もっと早くお前と話せていればな。違うんだよ、あいつの行動は、手遅れにしたくないための先走りだったんだ。それが、和田にはそう映ったか。あいつは、両親の事故とお袋さんの自殺をずっと後悔していたんだ。自分の優柔不断が招いた事だってね」
稲作は相変わらず黒のTシャツとジーンズ。長かった黒髪は短く刈られている。
今日は智紘の十三回忌。
１
コツ、コツ、コツ、コツ……。
夜の小径をハイヒールの音が響く。
その後を追うように、スニーカーのひたひたという足音。
田舎の道は暗い。ちょっと路地に入ると街灯は疎らだ。
ひたひたという足音の主は、ハイヒールの前に躍り出た。
「キャーッ！！」
思いがけない絶叫に怯んだ相手は、一瞬動きを止めた。その隙に、手に持っていたバタフライナイフをハイヒールに蹴り飛ばされた。二撃目のかかと蹴りは、相手の額に穴を開けたかも知れない。
「あたしを襲うなんざ、百年早いぜ」
スニーカーはナイフを拾うと、一目散に逃げ出した。
また、足を蹴り上げすぎてミニスカートの縫い目が避けてしまった。
学生服の頃はプリーツスカートだった。大学卒業も間近だというのに、高校の制服が懐かしい。あの頃が一番こんな馬鹿をやっていたんだ。
明日は足が筋肉痛になるかも知れない。
「その場に居合わせたかったぜ」
「助けてくれるのか？」
「もちろん見物だ。助けるなんて、恐れ多いぜ」
稲作は想像を膨らませているようだが、夜では見えないだろう（何が？）。
森本智紘は、おねえ、こと赤木昌子と２人で、広木稲作のおんぼろ桃色アパートに上がり込んでいる。これには稲作に無茶をさせない監視の意味もあった。“ばら園組長殺人”騒動から生還して２日しか経っていない。普通の人間だったら、まだ篠原医院のベッドで安静にしているはずだ。彼は金と時間の無駄だと言って、勝手に病院を引き払って来てしまったのだ。
「誰だ、そんな命知らずなやつは」
「和田だよ」
「清水くんは？」
「さあね」
「何でターゲットは、ぼくじゃないんだろう」
「男に男がストーキングするか？」
「場合によってはね。でも大丈夫だ。あんたにそんな魅力はない」
「だって、嫌がらせなんでしょう？」
「奴らは、お前には手を出さねぇよ。お前に恨まれるのを恐れはするだろうが、お前を恨むような事はしねぇだろ。代償が大きすぎたからな。未だにお前は半病人のプータローだ」
「ひどい」
「それに、清水は一度、お前に会っている。それも一番とびっきりな時にな。……桜が散りかけていた頃だ。時々吹く風で桜吹雪になっていた。朝早く、お前を連れて歩いていたんだ。前から清水がジョギングして来た。会いたくなかったが――」
二人に気付いた清水は、立ち止まってこちらを見た。
「何見てる？珍しいか？」
まだ智紘が夢の中にいる頃、稲作は彼の手を引いて歩いていたのだ。様子のおかしさは一目でわかる。
「森本？」
「声をかけてもわからねえぜ。誰のせいとは言わねぇが――」
「ちょっと待て広木、どういうことだ。……森本、この話はあたしが聞いてもいい話なのかい？」昌子が話を遮った。
「稲作、おねえに言っていなかったのかい？おねえとぼくらの仲だ、かまいはしない」
「すまねぇ、智紘」
「続けていいよ」
「こいつの両親の事は聞いているだろう？あの後こいつにもいろいろあったみたいでね。帰ってきたのはいいがこのザマだ。俺の事もわからねえよ」
稲作は慌てて、見えていた智紘の手首の傷をリストバンドをずらして隠す。
昌子は、智紘がいつもリストバンドの訳を知った。
「あの時、こんな事になろうとは、俺もこいつも思っていなかった。あまりに酷ぇ結末だと思わねぇか？清水、お前の今は自業自得なんだぜ。だが、こいつがいったい何をやったっていうんだ」
「俺が清水に気を取られている間に、好都合にもお前はいつもの気絶をして、あいつの哀れみを受けながらその場を退場したってわけだ。………あいつ、あれを見ても性根が直らねぇのか」
「きっと脅されているんだよ」
「森本、今はどこも何ともないのかい？」
昌子は、あの年の花火大会の時の状況を知った。
「大丈夫だよ」
「高校時代よりイカレ具合に磨きが掛かっているけどな」
「重ね重ねひどいな、きみは」
「あいつら、家のまわりや親父の会社に、こんな誹謗中傷のビラを撒きやがった」
おねえこと昌子は、この言葉遣いさえなければ凄い美人だ。このアンバランスが、彼女の魅力か？
おねえは、持ってきた紙を無造作に広げて見せた。とても綺麗なカラープリントだ。内容は、おねえが、あんな事やこんな事をしていると嫌らしい言葉が書き並べてある。一番下には、うっふーんって感じで横になった裸のおねえが手招きしている写真があった。もちろん首をすげ替えた合成写真だ。
「智紘、鼻血」
「え？」慌てて触ってみる。
「嘘に決まってるだろ、ばーか。……ところでおねえ、これは本当に誹謗中傷か？真実って言うんじゃねぇのか？」
「よくも言ったな。あたしは、あんな事はしたが、こんな事はしてない。あんな事をしたのは高校の時だ。とっくに時効だぜ。それにあたしは、そんなに汚ねえ体じゃない。侮辱罪だ」
「ハハハ、やめてくれ。腹が痛い」
「大丈夫？」
「大丈夫か？」
「なんだよ、声を揃えて。おねえが笑わせるからだ。でも、もっと凄い事やっているよな。そんな事とか。……おい、智紘、鼻血、大丈夫か？」
「あらら」今度は本当だった。
おねえの裸の写真を汚してしまった。
「――ティッシュだ」
稲作は素早い動きでティッシュを持ってきてくれる。
「あんた達、相変わらずだね。――あんたも男だって事か。高校の頃よりは少しは男らしくなったなったように見える」
おねえは微妙な言い方をしたが、ちょっと嬉しい。
「ほんと？」
「しょうがないねぇ、顔洗って来な」
「なんなんだ、あいつ？」
台所に行った智紘を見ながら、昌子は言う。
「刺激が強すぎたか、免疫ゼロだからな」
「そういえば、あの頃からあんたの部屋には見事にエロ本がなかったもんな」
「わかりやすい所に置くかよ。おねえ達だって出入りしてたじゃねぇか。連中に見つかったら、何言われるかわかったもんじゃねぇだろ。へたすりゃ、袋だ」
連中とは、当時昌子の取り巻きだった不良少女達だ。一応女子高生だから、男の見るようなものを目立つ所に置いておけない。
「まさかあいつ――」
「たぶんそのまさかだぜ」
「あんた、何歳の時だい？」
「女がそんな事訊くかね、普通？高一の時だ。このアパートに住んですぐに、二階の水商売のお姉さんに教えてもらった。襲われたって感じかな」
「あたしは中三。当時付き合ってた族のヘッドだ」
「あいつには、おねえが適任だと思うんだけどな」
「冗談は止せ」
昌子は笑って言った。
後ろに智紘が立っていた。
「鼻にティッシュ突っ込んで横になっていろよ。……聞いちまったか？」
「最後の方だけね。ぼくにも一言言わせてよ。ぼくにも選ぶ権利はあるんだ、おねえが相手じゃレベルが高すぎだ。……それに、残したくないんだよね、ぼくの遺伝子」
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