〔月の光〕だより―今のままがいい―
〔月の光〕だより―今のままがいい―０９．２／１９〜／
草食系
「知っていますか、絹さん。今年は‘草食系男子’が注目されているそうです」
「草食系？ベジタリアンが流行ってるの」
「いいえ、お店のお姉さんたちの話を聞いていると、あなたのような人のことを言うようです」
「僕？」
ジルが働く〔Madam☆Rose〕は、どんな年齢層や職業のお客様にも対応できるように、店員教育がされている。旬の話題が豊富なのだ。同じ客商売でも、時の流れに取り残されたような、この店とは全く違う。
ここは、大きな川の畔に建つログハウス風喫茶店〔月の光〕。
「性格の話か。草食か肉食かと言われれば、草食の方かなぁ」
「性格より、恋愛観を指すようです」
「恋愛観？」
「あなたが誰かに恋した所を見たことがありません」
「年齢の問題だよ、僕はもう若くないから」
「そんなに年をとっているようには見えません」
「ほめられたと思っておこう。……だったら稲さんも草食系に入るんじゃ？」
稲作は、見た目は肉食系だが、恋愛についてはかなり臆病だ。
「そう、オオカミの皮を被ったヒツジだと、マダムたちの話が盛り上がっていました」
「なんだか気の毒な言われようだねぇ」
こんな風に、稲作の帰りを待つのがジルの日常。
「ごめん下さい」
入ってきたのは知っている女性。
「いらっしゃい……ま…せ…」
「どうしました。すごい心拍数ですね。……あなたの恋人ですか」
もちろん、耳元でささやくジルの言葉に反応できる余裕などなかった。
(090219)
彼女との関係
失礼。
ジルは、激しく動揺する絹さんの記憶を見た（これは彼の特殊能力）。見つめ合って立っている女性と、彼のこれまでの関わりがめまぐるしく流れる。初めて彼が彼女と会ったのは、智紘の初七日が済んだ頃。５年前のことだ。智紘のわずかな遺産を受け取ることが目的だった。自分の余命を知っていた智紘は完璧な遺言を残していて、彼と稲作が受け取らない場合は、全額指定した自然保護団体に寄付をするというものだった。その手続きと、彼女への説得を全て絹さんが引き受けたようだ。彼女は遺産を受け取ることが出来なかった。
稲作は？
満身創痍の姿が浮かぶ。彼女との関係は、稲作の記憶でも曖昧だった。
『何で１時間でも３０分でも、生きている時に来てやってくれなかったんだ。
ウソでも良いから、笑顔で会ってやって欲しかった。……俺はどうしても、あ
の人を受け入れられねぇ。せっかく来てくれた妙ちゃんのためにも、トラブル
は起こしたくねぇんだ』
拳を震わせながら言う稲作が見える。
絹さんは、彼女への対応を、まだ若過ぎた稲作に任せることは出来なかったのだろう。
彼女、水沢淑子は、智紘の伯母で妙の母親だった。
＊過去の経緯は「みちくさ」をご覧下さい。
(090224)
田舎料理
「泊まってくかい？妙ちゃん」
「うん！」
お袋の一声で妙を置いていくことに決まった。
喫茶店〔月の光〕から実家まで、バイクを飛ばして高速に乗っても２時間の距離。２時間かけて来た理由は「妙ちゃんの浴衣を縫いたい。採寸するから連れてこい」というお袋の半強制的な命令だった。妙は喜んでいるからいいけれど。
「何日泊まってってもいいんだよ、帰りは車で耕作に送らせるから」
車と言っても親父の軽トラ。それもいい。また２時間バイクの後ろに乗せて帰らせるのかわいそうだし。
テーブルの上にはいろいろな煮物やきんぴら、ありったけの漬け物、お袋自慢の蒸しパンなんかが正月みたいに並んでいる。昨日から準備していたのだろう。
「妙ちゃん、食物繊維たっぷりの料理だからたくさん食べな。お肌がつやつやになるよ」
「おばちゃんみたいになれるかな？」
「なるなる」
確かに、化粧した所なんか見たことがないお袋の顔は、つやつやと言うよりは、健康的にてかてか光っている。
「稲作、絹さんに渡しとくれ」
帰り際、玄関で新聞包みを渡される。
「わかった」
包みの中身は白菜漬けと古漬けたくあんの炒めたやつに違いない。絹さんが電話で大げさに褒めているのを聞いたことがある。社交辞令かも知れないのに。
「いいのか？妙の事」
「大丈夫だよ、大事な智紘君の従妹なんだから。……あんたのお嫁さんだったらもっといいんだけどね」
「馬鹿を言うな。じゃ、頼んだぜ」
お袋は妙の事情を知っている。体調のことも含めて。
(090306)
今のままがいい
他人からは、甘やかしているように見えるだろう。稲作たちは、可能な限り妙の言いなりになっている。大学に戻れとも言わないし、故郷へ帰れとも言わない。俺のことを好きだと言っても、冷たく突き放したりはしない。それが、いつか彼女を傷付ける結果になったとしても、今は傷つけたくないない。傷付くことに耐えられるようになるまでは、今のままがいい。
理解不能なほど怖いことはない。
初めて現場を見たのは、妙がこの町に来て間もなくの頃。
住む場所が見つかるまで、稲作のアパートを貸していた（その間、稲作は絹さんの所に転がり込んでいた）。早く帰れるはずだった仕事が遅くなったが、いつもの約束通り顔だけは見せようと、チャイムを鳴らしても返事がない。合い鍵を使って中に入った。
大勢でクリスマスパーティーでも開いているような量の菓子、菓子パン、コンビニ弁当が事務所の床に散らばっていた。
妙は？
トイレで吐いていた。
帰りが遅いと泣きじゃくられた。
過食症だと聞いてはいたが（本人からではなく近所の医者に）、見たのは初めてだった。
遅くなる時は必ず電話する約束をした。
大量の食料を妙と２人で食べた。
妙と同じ事をしてみた。
無様な姿を見せつけたかったのではなく、彼女の気持ちに少しでも近付きたかった。
あんなにもったいないことをしたのは、人生で初めてだった。
(0903013)
苦手
この日が来ることはわかっていたけれど、考えていなかった。いや、考えないようにしていたのだ。
再び喫茶店〔月の光〕。
「妙はどこにいるの？」
妙の母、水沢淑子は言った。
妙が母親にも話していなかった身体のこと以外の事情は、電話で何度も話し合っていたが、解ってもらえるはずもなく、事情の張本人の妙は、淑子の元に戻らなかった。僕らが妙を洗脳したために、彼女の元に戻らないのだと思い込んでいる。
「ちわ〜す」
最悪のタイミングで稲作が帰ってきた。
「あ」
カウンター席に座る淑子を見た。
「妙は！？」
振り返った淑子は、睨み付けるように彼を見て言った。
「わざわざ来るなら、連絡くらいよこせばいいのに」
稲作がわざわざと言ったのは、彼女は北海道から来たからだ。
「そんな事したら、あの子を隠すでしょう！」
「隠すかよ、小さな子供じゃあるまいし。……だけど、あいつには知らせるぜ。心の準備がいるだろうから。会うか会わねえかは、あいつの自由だ。――電話してくる」
店の外に出た稲作は携帯のボタンを押す。
何で手が震えてるんだ！
どうしても、あの人は苦手なのだ。
(0903016)
今はまだ
『稲作？着いたの？』
「ああ」
『これから、おばちゃんと温泉に行くんだ』
「そうか。――妙、こっちにお袋さんが来てる」
『え？お母さん？』
「ああ、どうする？」
『――』
「会うんなら、連れてってもいいし、おまえが来るんなら、親父か耕作に頼むが――」
『お願い！今はまだ……』
「自分で説明できるか？おまえの声を聞かないと納得しないだろう」
店のドアを開けると、全員が稲作を見た。
「妙が話すって」
淑子は携帯をひったくって言った。
「妙、どこにいるの？」
「どうして！？」
「ママがそこに行くから」
「どうして！！」
「あなた、妙に何を言ったの！？会わないようにと脅したんでしょう！」
電話を切られた淑子は稲作に迫る。
「そう言ったんなら、それがあいつの答えだ。あいつの気持ちを尊重する」
「どうして？前はあんな娘じゃなかった。あなたに会ってからよ！あなたのせいよ、妙を返して！」
困った。親に反抗するなんて健全な証拠じゃないか。そんなことを言ったら火に油を注ぐようなものだから口には出さないけれど。
(0903027)
幸せな生活
「あんた、妙の気持ち考えたことあるのか？」
「当たり前でしょう、考えているから迎えに来たのよ。今ならまだ、復学すれば間に合うの。地元の大学に転入させてもいい」
「何に間に合うんだ？」
「あの娘にふさわしい幸せな生活よ」
「幸せな生活……って何だ？」
「今の生活じゃないことだけは確かだわ」
それは認める。だが妙は、今の生活の方がましだからここに逃げてきたのだ。
まさか。妙の身体のこと知らねぇんじゃ？
「なぜ、妙はここに来たと思う？」
「あなたがそそのかしたからでしょう」
「……」
悟られないようにしていたのか。
なぜ気付いてやれなかったんだ。母親なのに。
「お母さん」
と、声をかけたのはジル。
(090402)
秘密
「ジル、俺が話すよ」
ジルに任せたら事実をストレートに伝えるだろう。
（大丈夫ですか。――彼女は恋人と別れたようです。そして、あなたを見るた
びに、彼と交わした会話が見えます）
ジルは幾つかの淑子の記憶を送ってきた。
！？
稲作は１度だけ彼女の恋人と会ったことがある。
（同一人物ですね）
ジルの問いかけに頷く。彼女のことを調べる気はなかったが、疑いは真実に
なった。あれは殺人未遂だったのだ。
迷う事はなくなった。彼女には少しだけ傷付いてもらおう。
「誰にだって、触れてもらいたくないことの１つや２つあるだろう？あいつ
と別れたんだってな」
彼女の傍に歩み寄りながら言う。
「何の事？」
「あんたがやったことは全部知っている。俺の仕事を知っているだろ？」
と、脅迫者のように耳元で囁いた。
冗談としか思われていないが、稲作の事務所件住居には「広木稲作探偵事務
所」という、立派すぎる看板が掛かっている。
「妙も知っているの？」
「何も話してねぇよ。が、あの娘は勘が鋭いから、何かを感じてあんたから放
れたのかもな。そして、俺たちを頼ってきてくれた。……しばらく好きにさせ
てやってくれねぇか？」
(0904015)
脱力
「お母さん、今日の所はお引き取り願えませんか。私が東京までお送りします」
と、ジル。
淑子はおとなしくジルの後をついて行った。
「稲さん、さっき淑子さんに何言ったの？」
「何でもねぇ。知らねぇほうが良いって事もあるんだぜ」
「わかった」
彼の言うことは信じることにしている。
「……コーヒー、飲む？」
「あ、ああ、頼む」
「ジルちゃん、大丈夫かな？」
「たぶんな」
(0904024)
別世界
「ごちそうさん。じゃ、俺行くわ」
砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲み終えた稲作は、早々に腰を上げた。
「どこへ？」
「また実家に行ってくる。妙の傍にいてやろうと思う」
おとなしく付いて歩く淑子は、ジルに激しい興味を抱いているようだ。彼女の目に映るジルの姿は、彼女が理想とする異性の姿。――智紘には似ていない。
「意見を聞き入れて下さってありがとうございます」
「素直に帰るか心配なの？」
「なぜ、そう思うのですか」
「東京まで送るなんて言うから」
「うふふ。出勤のついでです。迷惑でなければ、ご招待します」
と、さりげなく〔Madam☆Rose〕の名刺を差し出す。
「まぁ、綺麗な子だと思ったら、こういうお仕事してるのね」
「アルバイトですが」
〔Madam☆Rose〕に入ってきた淑子は驚いた顔をして店内を見回している。内装は中世ヨーロッパの城のようだし、従業員も貴族のようなドレスを身にまとっているからだろう。全て麗華の指示通り、雰囲気の良いレストランで夕食を済ませ、今夜の宿泊先も決めてきた。
上機嫌の淑子は、王子様のような衣装を着たジルを見つけて小さく手を振っている。
(090508)
母親
「どした？」
稲作からの電話の後、妙は急に元気を無くして黙り込んでしまった。
「あの馬鹿、なんか無神経なことでも言ったのかい？」
「……母が、絹さんの所に行っているんです」
「あらまぁ、北海道から来たのかい？じゃ、早く戻んなくっちゃね。お父ちゃんに車出してもらおう」
「会いたくない」
妙は首を横に振る。
稲作の母、早苗は、稲作から妙の事情を聞いている。
「そうか。お母さんにもそう言ったんだね。……じゃ、温泉行こうか」
「おばちゃん、帰れって言わないの？」
「会いたくないんじゃ、しょうがないもの。男の子と女の子じゃ比べられないけど、うちの稲なんか何年も顔を見せないこともあったからねぇ」
「そうなんですか？」
「ああ、１０歳の時から前橋に行ったきりで、ちっとも帰って来やしない。……妙ちゃん、会える気持ちになったら、お母さんに会ってあげるんだよ」
「はい」
「あんなに図体が大きな子でも、放れていれば親は心配なんだから」
(090604)
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